キノコ

 



埴輪とは何者であるのか。
いかなる目的をもって作られたのか。

この謎への答は諸説あれど、
いずれも推論ばかりで、確たる根拠のある
ただ一つの通説といったもは提出されていない。

大体、埴輪作成の目的が複数であったかもしれないし、
時代によって変遷したのかもしれない。

けれども、人や動物の形をした形象埴輪には、
殉葬のかわりとして用いられたという説が、
まことしやか、通説然として語られている。

殉葬としての埴輪説の根拠となっているのは、
日本書紀の垂仁紀三十二年条の記事である。

内容を簡単にまとめると
「垂仁天皇の皇后日葉酢媛命の崩御にあって、
野見宿禰が殉葬に異を唱え、代わりとして
出雲の土部に埴輪を作らせることを提案した。
垂仁天皇はよろこんで、皇后の陵墓に
埴輪を建てることにした」
となる。

これは土部連(土師連:はじのむらじ)が天皇の葬儀・喪葬を
執り行なうことになったという起源譚になっている。
書紀の記述にも野見宿禰が「土部連等が始祖なり」と
あることからも、それが伺える。

日本書紀にも記述があるのだから、
これを通説として差し支えなかろうと思われるかもしれないが、
問題は書紀の記述が典型的な起源譚だということだ。
これに似た起源譚には、何も天皇家の陵墓だけでなく、
橋や堤防工事と人柱についての伝承として地方に多く残っている。
しかし、橋や堤防が確かに作られたとしても、
人柱の風習があったという証拠にはならないのと同じように、
垂仁紀が起源譚の典型的な体裁にのっとっている以上、
過去に殉葬があったといえるものではないのだ。

それでも殉死という風習が説得力を持つのは、
古代というものを、未開で野蛮というふうにとらえている、
人々の心のせいかもしれない。

古代を知るためには偏見に曇ることのない眼で見、
脳で考えなくてはいけないのだ。